現代詩と私

                             佐々木良一

 

返仁会誌の「私の趣味」の欄に、現代詩に関し何か書いて欲しいという依頼が編集委員よりあった。研究者としては2流、研究管理者としては3流、詩人としては4流以下と常々自覚しており、とても「私の趣味」の欄に書けるような実力ではないので一度は断ろうかと思った。しかし、現代詩と出会うことによりやはり豊かな人生をおくれたという思いもあり、趣味とはまさしくそうしたものだと勝手に決めて引き受けさせて頂いた。

詩との出会いは小学1年生のころまでさかのぼる。当時4年生の担任に詩や作文の教育に熱心な先生がいて、学校全体で文集を作ったり、生徒の作った詩や有名な学童詩を昼休みに「詩の国」と称して朗読し、校内放送で流していた。田舎の小学校であったが今思うと豊かな教育をしていたと思う。この先生に見込まれて、作文や詩を書くことが多かった。当時は書かされているという意識であり、楽しいとばかりは言えなかったが、自分の書いた読書感想文がラジオで放送されたり、詩が「詩の国」で朗読されるのを聞くのは子供心にやはりうれしかった。

しかし、小学校を卒業するとそれっきりになり、次に詩と出会うのは大学に入ってからになる。18歳で東京に出て来て級友と話していると文学や歴史を含め、その教養に大差がある事が分かり、大きなカルチャーショックを受けた。このため、文学や社会科学、人文科学の本をモーレツに読み始める。この中に、近代詩、現代詩(両方を合せて現代詩と言う場合が多い)の本もあり、中原中也、三好達治、堀口大学、八木重吉、ランボー、ポー(黄金虫等のアラン・ポーです)、ボードレール、ベルレーヌ、アポリネール、コクトー、スーポー、ローランサン(画家として有名なマリー・ローランサン)等の詩を熱心に読んだ。これらの詩は面白かったし、今も口ずさむことのある詩の一節もいくつかあるが、基本的に教養としての読書の域を出なかった。

本格的に、現代詩にのめり込む様になるのは大学3年生の時に清岡卓行の詩に出会ってからである。当時、世界との距離の取り方に戸惑いを感じていた私は、清岡卓行の凍った焔という詩の次のような一節を読んで衝撃を受けた。

「どこから世界を覗こうと見るとはかすかに愛する事であり/病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり/絶望とは生活のしっぽであって頭ではない」

世界とのかかわりをこのような形で受け入れている人がいる、このような覚悟で生き続けている人がいる、そして、このような形で言葉を残せる人がいるというのは当時の私にとって驚愕であった。清岡卓行の書いた多くの詩を読み、その後書かれた「朝の悲しみ」「アカシアの大連」「海の瞳」「幼い夢と」等の小説を読み、「抒情の前線」等の評論を読んだ。一面識もない人を清岡さんと呼んだ。清岡さんの生き方そのものが一つの理想であった。長男の名前を卓行とした。今では、清岡さんの作品を読む事も少なくなり、清岡さんに対する見方も少しづつ変わっているが、上記の詩の一節は、今も、私の生き方の一つの柱になっていると思う。

この詩は、思潮社の新選現代詩文庫の「清岡卓行詩集」に収められていたものであり、その後、このシリーズで黒田三郎、吉野弘、谷川俊太郎、吉本隆明、石垣りん、吉原幸子、茨木のり子、富岡多恵子等の戦後の有名な詩人たちの詩を読むようになっていく。そして、非常な寡作であるがぽつり、ぽつりと詩を書くようになっていった。

36歳の時、電気学会の論文賞の賞金と博士号をとったことに対する会社からのお祝い金の一部で、「エチュード36」という36編の詩からなる詩集を自費出版した。現代詩人名鑑に名前が出るようになったのもこのころの事である。

     一昨年、若いころから書いていた現代詩を久しぶりに作成した。そして、そのうちの一遍と、昔書いていた詩を一部手直ししたもの一遍の合計2編を神奈川新聞の文芸コンクールに応募した。その結果、後者が佳作に入選することが出来、神奈川新聞に掲載された。30歳台に書いた以下のような詩である。

 

       「家族」

娘よ

僕は君が生まれた時

有頂天で喜んだわけではない

 

息子よ

僕は君が高熱でないた夜

それでもしっかり眠ろうとした

 

だけど

僕は君達を愛しており

それは男子一生の仕事

だなどと思ったりするのだ

 

だけど

君達は僕に感謝する事など何もない

君達は僕の愛から自由だ

いつでも好きな所へ飛び立てばよい

 

君達への愛は

僕の身勝手

君たちの人生を

味わうための手段

 

だけど

それが悪い事とは思わない

人々が生き続ける事ができた

唯一の理由は

「君たちへの愛」だと

信じるようになったから

 

    詩を書くという事は誰でもできる事である。思ったり感じた事を適切に表現しさえすればよいのだと思う。短いので論文や特許を書く事に比べむしろやさしい事である。難しいのは、思ったり、感じたりする詩の原点が生まれる精神状態と、適切に表現するために詩を練り上げていく過程で要求される精神状態が大幅に異なる事だけである。健全で、批評家精神に満ちた時には詩の原点は生まれにくい。一方、詩を磨きあげるためには多くの代替案の中からどの表現を選ぶかを繰り返し決める事が必要になり厳しい批評家精神が不可欠である。私は、詩の原点が生まれた時にメモを残し、日記などに書き付けておき、磨きあげる精神状態になるのをじっくり待つという事によりこの2つの精神状態をつなげている。

年を取ると、現代詩という形式がやはり少し重たくなってくるのは確かである。最近は、俳句にも興味を持ちはじめている。現代詩が入選した時の賞金の一部で水原秋櫻子の俳句歳時記や稲畑汀子の季寄せを買い、楽しんで読んでいる。

「海鼠腸(このわた)が好きで勝ち気で病身で」森田愛子

等は俳句でしかだせないあじわいだろうと感心している。最近、ぽつり、ぽつりと作りはじめた。

「外は雪何を笑うかビルゲーツ」

「シュワッチと飛び立ちかねつ冬銀河」

いずれも駄作である。このような句ばかり作っているのではないが、私には即興性がないので、俳句は現代詩以上に苦手である。

しかし、いずれにも興味を持ち続けようと思っている。現代詩や俳句に興味を持っていると色々な楽しみ方ができる。堀口大学訳の「フランス近代詩集」(角川書店)を持ってヨーロッパを旅したり、歳時記を持って鈍行列車に乗れば、機中や車中が長いと全く感じなくてすむ。その効用だけでもありがたい。

現代詩とは本当に長く、楽しい付き合いであった。そして、現代詩だけでなく俳句や短歌とも今後も長い付き合いになりそうである。

                                           以上
(注)本原稿は日立製作所の返仁会誌に掲載したものを転載させていただいた。

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